吾輩と、猫である②

保護主さんからはすぐに返信が来た。



『フォロワーの数が多くてめっちゃ気持ち悪いんですけど。
と言うかゲームしてるんですか? その年齢でまだ?
あと小説読みましたつまらなかったです(笑)』


というような内容が返ってくるんだろう……。
でも吾輩の本を買ってくれたのなら「ありがとうございました」と言うべきだよなぁ……、


などと思っていたのであるが、


その返信は、予想を超えて、とてもポジティブなものだった。



どうやら、吾輩のツイッターが吉と出たようである。
『おちんちん』に類する文言しか呟いていないのに吉と出たのは、まさに奇跡である。


返信内容から察するに、

小説を出している、というところが、言わば『公的な人間である』と思って貰えたらしい。
フォロワーが多い、というところが、言い換えれば『衆人環視に晒されている』とも言えるので良かったらしい。
ゲームで遊んでいる、というところが……多分きっと何かしら良いと思って貰えたのだろう。多分。



ともあれ、やり取りはぐんぐん進んだ。

吾輩は猫初心者である。
吾輩は男性単身者である。

良いのですか? 本当に大丈夫なのですか?
保護主さんが恐れ慄く地獄の使いこと男性単身者ですよ?
世間一般では『不可認定』である吾輩が名乗り出ているのですよ?


どうか一度、冷静になられて下さい――。


みたいな、どこの立場からなのか分からない文言を送り付けてしまった気がする。


吾輩はこういう時、ちょっと自虐的になるきらいがあるのだ。
駄目なら駄目で仕方がないや、と思ってしまうタイプなのだ。


そんな吾輩に対して、保護主さんは丁寧に返答してくれた。
なんなら『良く調べていますね』とまで仰って下さった。



そうして、あれよあれよと話は進んでいくのである。



『どの猫に興味がありますか?』との問いが来た。



保護された4匹は兄弟である。

3匹がキジトラで、1匹がキジ白。
3匹のキジトラのうち、1匹がメスで、あとはオス。
キジ白もオスである。


正直なところ、どの猫も可愛いのである。
しかし、吾輩の答えは「この猫!」というものではなかった。


猫初心者であることを考えれば大それた話ではあるが、
吾輩は、出来れば2匹お迎えしようと考えていた。


それには理由がある。


幾つかの記事に載っていたのだが、
複数の猫を飼う、所謂『多頭飼い』にはメリットがあるようだ。

曰く、猫同士で遊ぶので、留守番の寂しさを紛らわすことが出来るらしい。
曰く、追いかけっこをするので、運動不足の解消に繋がるらしい。
曰く、猫同士でじゃれ合うことにより、社会性を身に着けることが出来るらしい――等々。


吾輩、とにかく猫に寂しい思いをさせるのは嫌であった。


吾輩自身、兄がおり、両親、祖母、そして2兄弟での生活であったが、
留守番で1人になった時などはとても寂しかったものだ。


1人で留守番をしていたある日、暗い部屋でアニメを見ていたら、
不意に左のふくらはぎが攣った。
あまりの痛みに暴れていたら、次は右の足が攣った。

両足を攣った吾輩は「地獄だ!」とのたうちまわり、誰に届かぬ助けを求めたことを今でも覚えている。


あの時兄が居たら――いや、居ても別にどうにもならなかっただろうが、
ちょっとは何かの役に立ったかも知れぬ。


兄が居て良かったことを思い返してみると、
やはり、一番のメリットは、ゲームや漫画の貸し借りであろう。


兄が買ったものは、弟が買う必要はない。
逆もまた然りである。

これは、少ないお小遣いで遣り繰りせねばならぬ幼少期にとっては、
とてもありがたいことであった。


「この漫画は兄が買っているので、吾輩は別のものを買えるな――」


そんな算段で、我ら兄弟は手広く趣味を広げていったのである。


そんな感じであったから、兄弟喧嘩しようものなら散々だった。


『兄が所有している漫画を読むの禁止令』が発令されてしまうのである。

これはかなりキツイ。
読みたいものが読めなくなってしまうのだ。

しかも、こっそり読むなどして禁を破り、それが何らかの拍子にバレてしまうと、
『蔵書のシリーズを集める権利の破棄』という罰則が待っている。


これはどういうことなのか。


例えば吾輩が、漫画『珍遊記』を集めていたとする。
そして吾輩は禁を破り、罰として『珍遊記』の権利を兄に奪われるとする。

すると、吾輩にはもう『珍遊記』を集めることは出来なくなるのだ。
代わりに兄がそれを集めることになるのである。


別に良いじゃん、余計なお金使わないで済むのだから――と言う声が聞こえるが、
否、そうでは無いのだ。


『自分はコレを集めている』ということが、ステイタスになる場合がある。


誰に威張れるわけでもないのだが、自分が偉いと感じるのだ。
自分はこの漫画シリーズのために、これだけの労力を払っておりますよ、という自負。

それが己を強くするのだ。



一つ、例を挙げるとしよう。


新世紀エヴァンゲリオン』というアニメが地上波で放映された。
吾輩が高校生の時である。


吾輩はこのアニメの1話目を見て、確信した。


これは恐ろしいアニメーションになる、と。


吾輩は真っ先に兄に教えてやった。
兄はその存在を知らなかったらしいが、やはり震え上がったようだ。


吾輩は鼻高々であった。


これは吾輩が見つけたアニメである。

当然のように権利を主張し、『新世紀エヴァンゲリオン』の単行本を買い、
ほくほくとアニメを録画し始めた。


そんな吾輩に向け、兄が放った一言がある。



「お前、責任をもって全てのコンテンツを所有出来るのだろうな」



当時、漫画、アニメブームはすでに始まっており、
人気アニメともなると、当然のようにレーザーディスク、あるいはDVD化され、
(当時はまだブルーレイディスクは存在していなかった)
主題歌のCD、サウンドトラックが納められたCDはもとより、
本編とは無関係のドラマCD、各キャラクターの音楽CDなんかも発売される場合があるのだ。



「それら全てを網羅出来る体力はあるのだろうな?」



尖った作品を発掘した気になり、浮かれている吾輩に、兄はそう告げたのである。



「俺なら、出来る」



兄は言った。

それはそうである。
兄は吾輩よりも4つ上。当時大学生であったはずだ。
アルバイトもやっていたから、金銭的にもかなり余裕があったであろう。

かたや、吾輩は高校生。
おまけに校則でアルバイトは禁止されている身だ。


とうてい、勝てるわけがない。
というか、そんなアニメの副産物にまで手が回るはずがない。


川が低きに流れるが如く、権利は吾輩から兄へと移行した。


そして兄は、私が知る限り、そこから凡そ10年もの間、
彼が出来得る限り、多くのグッズを集め続けたのである。

恐ろしいことに、かのアニメはまだ完結していないので、
今どうなっているのかは分からない。


兄は立派だった。
立派な消費者であった。


何が兄を動かしたのか。


勿論、アニメーションの素晴らしさもある。
しかし、それと同等に存在する魅力が、


『自分はコレを集めている』というステイタスだ。


時折、皆も聞くことがあろう。

「俺、この歌手が売れる前から知ってたし」

という、世にもしょうもないアレと似ている。


要するに、興味のない輩にとってはしょうもない価値観ではあるのだが、
しかし、それが大事だという人間もいるのだという事を分かって欲しい。



――はて、一体、これは何の話をしていたのだっけ?



……そう、猫を2匹欲しかったという話である。
つまり、兄弟は楽しいぞと、そういうことが言いたかったのだ。



だから、吾輩は出来れば2匹でお迎えしたいとの意向を保護主さんに伝えた。


保護主さんは「それは良いことだと思います」と仰って下さった。


『どの猫とどの猫にしますか?』との問い。


保護された4兄弟。
3匹がキジトラで、1匹がキジ白。
3匹のキジトラのうち、1匹がメスで、あとはオス。
キジ白もオスである。

そのうち、1匹のキジトラのオスは、
すでに別の里親が決まろうとしているらしい。


残されたのは、2匹のキジトラのオスとメス、
そしてキジ白のオスであった。


吾輩、情けないことであるが、猫初心者であるが故、
キジトラの区別が付かない恐れがあった。

なので、1匹はキジ白に、もう1匹をキジトラにすれば、区別が付いて良いと考えたのである。

そして、キジ白はオスであるから、キジトラのメスを迎え入れれば、
オスとメスの違いも分かって楽しいかなと、そう考えたのである。


そのように保護主さんに伝えた。
保護主さんも「確かに」と了承してくれた。



そして、実際に猫たちと対面する『お見合い』と呼ばれる催しの日取りが決められたのである。

吾輩と、猫である①

吾輩は猫を飼おうと思ったのである。


決して、独り暮らしが寂かったというわけでは無いが、
よし、猫を飼おうと思った。


「独り身がペットを飼うと婚期を逃すぞ」


誰もが口を揃えて言った。
よく聞くフレーズである。


昔から猫を飼いたかったのだが、実家の父方の祖母が猫嫌いだったらしく、
飼うことが出来なかった。

ちなみに母方の祖母は犬嫌いだったらしく、犬も飼えなかった。


吾輩は完全に詰んでいた。


小学生の頃、法の抜け道を通るようにして、強引に兎を飼ったのだが、
(従妹の家族とどこかへ出掛けた先で買って帰る。吾輩の両親は不在)
ダンボールで売られていたような兎であったからか、長くは生きなかった。

兎が死んだ晩、わんわんと泣いていたことだけは記憶している。


グッピーも飼ったことがあるが、なんだか飼った感じがしなかった。
グッピーに失礼な話だ。お詫びしたい。


ちなみに、グッピーも兎も実家の庭に隣り合わせで埋まっている。



「もし立派な大人に成ったら、ペットを飼って、こんな名前を付けて……」


そんな妄想だけに留めながら、思春期を過ごしてきた。
それから大分時間が経った。
吾輩はいつの間にか小説家になり、何冊か本を出版して貰った。

ゲームをしながら、ゲームを見る人たちと過ごすという、
ワケのワカランことなんかもやり始めた。


立派には成れなかったが、ワケのワカラン大人には成った。


ある段になって、そろそろ引っ越そうと思った時、
吾輩は不動産屋に『ペット可物件のみ』という条件を提示した。


もうペットを飼っても良いだろうと思ったのだ。
重ねて言うが、決して寂しいから、というわけではない。


「独り身がペットを飼うと婚期を逃すぞ」


誰もが口を揃えて言う。


「じゃあペットを飼わなかったら婚期が迎えに来てくれるんですか!」


吾輩がそう返すと皆が黙った。
完全論破である。


論破したのに、何故だか涙が頬を伝った。


引っ越し先の近くに知り合いがおり、
用事で家を長く開けることになったとしても、面倒を見て貰える約束を取り付ける。


準備は万端。


しかし、いざ、大手を振って猫が飼えるような環境が整っても、
なかなか猫との暮らしは始まらなかった。


その理由は幾つかある。


吾輩、ペットはペットショップで買うものだと思っていた。

だから、ロシアンブルーが良いなとか、ソマリは格好良いなとか、
ノルウェージャンフォレストキャットって名前はなんかガイ=リッチーの映画のタイトルみたいで凄いな、
などとワクワクしていたのだが、


ツイッターでこんな意見を貰った。


「猫を飼うのなら、里親制度というものがあるので、ご一考ください」


こんな感じのメッセージを数件貰った。


多くの人は丁寧な口調であったが、中には「ペットショップは! 生体販売は!」という勢いの人も居て、
ほんの少しだけ怖かった。


(里親……なるほど、そういうものもあるのか。)


確かに、里親という制度は聞いたことがあった。
聞いたことがあったのに、完全に失念していた。


捨てられた、あるいは野良として生活している不憫な猫を保護し、
猫を飼いたい人と巡り合わせるのが里親制度である。


(不憫な猫を飼うというのも悪くはないなぁ。吾輩もある角度から見れば不憫だし)


それから、インターネットで里親制度について色々と調べてみる。
どうやら里親募集のサイトが沢山あるようだ。


覗いてみると、沢山の猫や犬が里親を待っているようだった。
世の中にはこんなにも不憫な動物がいるのかと、ちょっと驚いたほどだ。


しかし、ここで一つ問題が浮上する。


里親募集の応募要項に、結構な頻度で「男性単身者不可」の文字が記載されている。


男性単身者……つまり吾輩である。
多くの場合において、吾輩は不可なのである。


確かに、吾輩は不可であることが多い人生だった。

学業でも、眼鏡をかけているに関わらず不可、
バイトでも、空白の期間の説明が上手く出来ずに不可、
友達として、あまりにも冷淡なので不可。

不可不可な人生である。
口に出すと暖かい人生っぽいのだが、現実は限りなく肌寒い。


しかし、まさか、ペットを迎えるにあたっても不可であるとは思いもしなかった。


男性単身者を不可とする理由は幾つかあるようで、
単身者の場合、仕事に出かけるため家を空ける時間が長く、
猫の面倒を見る頻度が少なくなってしまうこと。

あるいは急な出張や転勤などが考えられ、
猫が安心できる状況を常に作り続けられない可能性があること。

また、虐待目的の可能性もあるらしいこと。


吾輩そんなことしないのに!
友達いないから結構家に居るのに!
つい先日も知り合いからのお誘いを断ったばかりなのに!


嘆いても仕方がない、と、『単身者可』のタグがあるものに的を絞り、
気になった猫の保護主さんにコンタクトを取ってみた。

「ワタクシダイジョウブですから!」とつらつらメッセージを書き連ね、送信すること数度。


結果は散々なものであった。


1回目。

返信が無いまま募集のページそのものが無くなる。


2回目。

返信を頂き、一段階進んだところで「里親が決まりました」と断られる。


3回目。

返信が無いまま投稿主のアカウントが消える。


4回目。

返信を頂き、数度やり取りをさせて貰う。
「この猫は初心者には難しいかもしれません」とのお言葉を受け、断念する。


その他、『単身者可』であっても女性限定で、男性はNGの場合が多く、
ページを開いてはガッカリする……を幾度となく続けること十数回。


気が付けば、初めて応募してから数カ月が経過していた。
そして、吾輩はちょっと心が折れ掛かっていた。


「どうやら吾輩は里親に向いてないのかも知れない」


そんな風に思うようになっていた。


吾輩以外にも、里親になりたいという人はいるだろう。
保護主としても、彼らと吾輩とを比べたら、断然彼らのところを望むだろう。

だって、吾輩が保護主ならそうする。
『少しでも良いところに貰われて欲しい』と思うのはとても正常な思考であろう。


競争――という言い方は語弊が生まれるかも知れないが、
吾輩は、その壇上にのぼる気力そのものが失われ欠けていた。


ふらふらと、近所のペットショップを覗くようになったのは、その辺りからだ。

『吾輩』と『猫』という小さな単位で見れば、保護された猫もペットショップの猫も、さして変わりはないのではないか?

そんなことを思いながら、ペットショップを巡っては、
ガラスケースの中に入った猫を愛でていた。


しかし、そこでも踏み切れずにいた。
吾輩は不可である、という事実が頭をもたげ、強引に買って帰ることは出来ずにいたのだ。


それからやっぱり、里親募集サイトを覗く日々が続く。
ただ覗くだけで、こちらからコンタクトを取ることは無い。


里親募集の文字を見ながら、吾輩は色んなことを考えた。


本当に里親になりたいのならば、『どの猫が良いかなぁ』なんて気持ちで、
猫を選んではいけないのではないか?

『この猫は可愛い』、『この猫は変わっているから良い』などという理由は、
不純なものなのではないだろうか?

――吾輩は、全ての猫に平等であると言えるだろうか?
――猫を飼うことを、一種のステータスにしようとしてはいないか?
――猫の幸せを願うのならば、吾輩が飼わないほうが良いのではないか?


吾輩はちょっと考えすぎて、たぶん変な感じになっていた。


「吾輩、猫が飼えない。とんでもない不可野郎だから」


そんな愚痴にもならない言葉を知り合いに漏らすと、
あくる日、知り合いがこう言った。


『保護団体だけじゃなく、ツイッターフェイスブックを使って、
個人的に里親を募集している場合もあるから、そこから応募してみるのも良いかも』


(なるほど、そういうものもあるのか……)


個人とのやり取りであるならば、もうちょっと吾輩のことを見て貰えるかもしれない。
しかし、フェイスブックの方はすぐに候補から消えた。

吾輩のフェイスブックは、ほぼ更新されておらず、
時々、学生時代の知人の幸せな様子を見たりだとか、
昔のコイビトが結婚して子供を産んだことを知り、独り傷つくくらいの活用しかしていないのだ。


それは恐らく正常な使い方ではあるが、こちらの身分、人格を保障するものはなるまい。


では、ツイッターか。
確かに、吾輩ツイッターは結構使っている。

しかし、吾輩のツイッターと言えば、
おちんちんとか、あるいはそれに類する言葉しか呟いていないアカウントである。

ヘンなことばかりやっているから、フォロワーは七万人くらいいて、
とてもじゃないが普通じゃない。


こんなものが見られた日には、速攻でお断りさせられるのでは……?


そんなことを考えつつ、しかし何もしないよりはと、
ツイッターにて、里親募集のハッシュタグを検索した。


沢山の情報が出てきた。
保護団体のものもあれば、そうでないものもある。
北海道から沖縄まで、津々浦々で募集されていた。


そんな中、一つのツイートに目が留まった。


里親募集の文言とともに、写真が載せられている。


そこにいたのは、4匹の小さな猫たちだった。
ショッピングセンターの駐車場で保護されたようだ。
どうやら、人間に捨てられたのではとのことだが、どういう理由によるものかは分からない。


場所は、馴染みのある地域だった。
吾輩が学生時代に住んでいた町である。
(実際はちょっと離れていて、あとから聞いた話によると、分かりやすい町名を挙げたとのことだ)


吾輩はすぐにキーボードを叩いていた。


(これが駄目だったら、もう諦めようか)


そんな思いで、吾輩はコンタクトを試みたのである。

フィクション

※この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません

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10月●日は誕生日だった。


中学校時代に友達だったY君という人がいて、
彼の誕生日が10月●日だった。

Y君は背が高く、勉強は駄目だったが運動が出来て、それなりにモテていた。
かたや僕は、背の順で並ぶといつも前から2〜3番目と背が低く、
運動も出来ず、勉強も駄目で、これでもかとモテなかった。

当時、スクールカーストという言葉は無かったように思うが、
その制度で言えば、容姿に優れ、おまけにちょっぴり悪そうな彼はおそらく上位に属し、
いつまで経ってもチビでアホで眼鏡な僕は下位に属していただろう。


そんな僕と彼がどうして友達関係であり得たのか、

きっかけも思い出せないし、未だに疑問が残るところではあるが、
僕は彼と、結構な時間を一緒に過ごしていたように思う。


思うに、家が近かったというのが最大の理由ではないだろうか。


彼の家と僕の家は、自転車でおよそ5分ほどの位置にあり、
僕らが通っていた学校は、県内の方々からわざわざ時間を掛けて
通ってくるような学校だったので、

だから、家が近所というのは、結構なメリットになり得た。
遊びに行くのも気楽であったし、実際、何度もお互いの家で遊んだ記憶がある。


彼は同学年や低学年の女子生徒と交際をしていたこともあり、
僕はそんな彼の恋愛話を、その上っ面だけ聞いては、知ったような顔をして頷いていた。

女子生徒たちの交換日記を覗く機会なんて、
当時の僕単品では、よほど卑怯な方法を取らない限り不可能であった筈だが、
覗き見る機会を得たのは、彼の巧みな話術のおかげである。


ある休み時間、僕らは教室の隅で、
こっそり女子生徒たちの交換日記を広げて、
その鑑賞会を行っていた。

その日記の中には、彼や彼の周りの男たちの名前が、
可愛らしい文字で書かれており、
僕の名前など1ミリも記されてはいなかったが、
何故か僕はウッキウキだった気がする。

ウッキウキで「お前の名前があるー!」とか言っていたと思う。

哀れである。


また、彼のおかげで、普段では絶対話さないであろう同学年の男子生徒たちとも、
仲良くなる機会があった。

コネ入社ならぬ、コネ仲間だ。
Y君のおかげで、分不相応な上層部の人間と親交があったのだ。

一見するとどう見て駄目人間であり、
また、知れば知るほど根が腐っているのだが、
どういうわけか上層部との繋がりがある僕という男には、
破格の出来事が沢山起こる。

その中でも随一の出来事と言えば、


彼女が出来たことだ。


コネ恋人とのコネ交際である。


コネだけしかないから、一か月も持たなかった。
何も起こらずフラれた。


それは仕方がない。

恐らく、初めての彼女だと浮かれていたのだろう、
彼女から借りた教科書のすみに愛の言葉を書いちゃう僕で、
「そういうのはやめてくれ」と諭されるほど気持ちが悪かったのだから、仕方がない。


ただ、「僕は過去に女性と付き合った経験がある」という、
当時の僕では得ることが出来なかった手形を頂戴出来た。


破格である。

この手形を手に入れんがために、何人もの人が命を落としていったと言う。
きっと、多くの人が羨ましがっていることだろう。


ただ、そんなY君との親交は、あることを切欠として、
それが偽りのものであったのだと知ることになる。


ある日、駅のホームで電車を待っていた。
快速が通過してしまう小さな駅で、だから僕と彼はぼんやりと時間を潰していた。


ふと、僕の横で彼がゲームボーイを取り出し、遊び始めた。


ゲームボーイというのは、小型の携帯ゲーム機であり、
当時の僕らはそれに夢中だったわけだけれど、
彼がそれを持っているのは初めて見た。


「あれ、Y、ゲームボーイ持ってたんだ」

そう尋ねると、彼はゲームをやりながら頷き返す。

「そうなんだ」

そう納得した僕であったが、
ふとした瞬間に見えたゲームボーイの下側には、僕の名前が記されていた。

僕は別に、ゲームソフトに名前を付ける主義ではないのだが、
何故かゲームボーイには自分の名を書き記していたのだ。

表でも裏でも無く、下側に書かれていたので、
多くの人は気が付かなかっただろう。


「あれ、これ俺のじゃない?」


恐る恐る尋ねてみると、彼は「あ、うん。借りてる」と答えた。


貸した覚えなどなかった。


ああ、これは偽りであったのだな。
そういう関係であったのだな。


僕はその時、色んなことを悟った。
パラパラと、いろんなものが、駅のホームを流れて行ったような気がした。


果たして、僕とY君とは対等な関係であったのか。


僕自身にも問題はあっただろう。
彼にも問題はあっただろう。


ただ、多分、対等ではなかったのだ。


僕も彼を利用していたのだろうし、
彼も僕を利用していた。

友情とはそういうものなのかも知れないし、
あるいはそうではないのかも知れないが、


当時の僕は、彼を詰問することは無かったし、
彼も彼で、言い訳を用意することすらしなかった。


ただただ、ゲームボーイを自分の鞄にしまい込んだ僕は、
電車が通過していく様を眺めていた。


それからもY君との関係は、しばらく続いていくのだけれど、
違う高校に行ったことで少しずつ離れていき、
大学に進んだときには、もう、連絡も取れなくなった。


いつもは忘れている。
けれど、10月●日になると思い出す。


今日は彼の誕生日であったな、と。


元気で暮らしていてくれ、とも思わないし、近況を語る気にもならない。


ただ、思い出すだけ。


あの頃、あんなことがあったなぁと、
苦笑いをしながら、思い出すだけである。

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※この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません

君と夏が、鉄塔の上

いよいよ明日、7月14日にディスカヴァー・トゥエンティワン社より、
拙著である『君と夏が、鉄塔の上』が発売されます。

君と夏が、鉄塔の上

君と夏が、鉄塔の上

イラストは栄太さん、カバーデザインはbookwallさんに手掛けて頂き、
おめかしをしての出版となっております。


よく、著作を我が子のように感じられる作家の方がいらっしゃいますが、
ゼロから手塩に掛けて育て上げた小説が、
読者の方々のお手に渡っていく様は、まるで嫁いでいくようでもあり、

なるほど、確かに娘のような存在なのかも知れません。

ただ、子供は「放っておいても勝手に育つ」と言われるものですが、
僕の小説は百パーセントの確率で「放っておくと一向に育たない」という、
奇妙不可思議な現象が発生するのです。

さらに、小説のほうから無言のプレッシャーを掛けくる始末。
デスクトップ上に置かれた小説が

「今日も一度開いただけで、何も触らずに閉じましたね」
「今日はダブルクリックすらしませんでしたね」

と言っているような気がして、おちおちゲームも出来ません。


しかも「うるさい! もう勝手にしろ!」と放っておくと、
締め切りやら担当やらから「これは育児放棄ですね」と言われてしまうありさま。


『もうそろそろ独り立ちして、勝手に書き上がって欲しい……』


親の気持ちが少しわかった気がします。


そんな『君と夏が、鉄塔の上』でありますが、
全国の書店さま、amazonおよび電子書籍にて発売されると思いますので、
よろしければ読んでやってくださいませ。


ただまあ、僕の作家としての知名度が低いもので、
全国すべての書店に置かれる……なんてことにはならず、
ややもすると、ご足労をお掛けする場合があるかと思います。

申し訳ありません。


僕はまだまだ新人作家であり、未熟もいいところではありますが、
これからも、皆様に楽しんで貰えるようなものを書き続けられれば良いな、
と思っておりますので、お付き合い下されば幸いです。

それでは、小説にてお会い出来ることを楽しみにしつつ、今回はこれにて。

新刊のおはなし

2016年7月14日に、いよいよ二冊目の小説を出版することになりました。

君と夏が、鉄塔の上

君と夏が、鉄塔の上

イラストを栄太さん、デザインはbookwallさんに手がけていただき、
素敵な帯までこしらえて貰い、

ディスカヴァー・トゥエンティワン社より、おめかし万全で発売されることになります。


いよいよ誰かに読んで貰える――そう思うだけで、ドキドキしてしまう。
楽しんで貰えれば本当に幸いなのであります。

ゲッセイ 『誰かの背中越し』

先日、知り合いの歌手であるハービーさんの紹介で

ソラトニワ原宿「GOLDEN STEP〜着席!原宿学園〜」

というラジオのコーナーに出演させていただいた。


そこで、『誰ががプレイしているゲームを見る』という話題がちょっぴりあがったのだけれど、

ゲームをする、ではなく、ゲームをしている姿を見る、
という行為の原体験は何だっただろうと考えると、
真っ先に浮かんできた景色がある。


それは、兄の背中と、緑色をした巨大な悪の帝王だ。


僕には四つ上の兄がいる。

僕も兄も、今でもゲーム好きだが、我が家にファミコンは1台しかないため、
どちらかがゲームをしていたら、当然ながらどちらかはゲームを出来なかった。

そして、ゲームにも、それぞれ所有者がある。
家族、兄弟間で共有こそされているものの、薄らとした優先順位があるのだ。

順位が一番なのは、そのゲームを買った人。
それから、兄弟、父、母と並んでいく。
父も母もゲームをほとんどやらなかったので、基本的には兄弟の間で格差がつくことになる。

我が家は「お小遣い年功序列制度」が採用されていたので、
兄の方が僕よりも金持ちだった。

必然的に、兄のソフトが多い。
右も左も、文字通り兄の息の掛かったソフトばかり。

一大権力者だ。

兄と喧嘩しようものなら、僕の優先順位は母よりも下の最下位となり、
触らせてさえ貰えなかった。


あれは小学校のころ。
家に帰ると兄がドラゴンクエストⅣをプレイしていた。

僕もドラクエⅣはちょこちょこと進めていたけれど、
兄が買ってきたソフトであったから、遊ぶ優先権は兄にあり、だから兄の方が先に進んでいた。

兄のドラクエⅣは最終局面を迎えていて、
多くの仲間とともに、悪の帝王デスピサロに戦いを挑んでいる。

僕のセーブデータにいるライアンやアリーナ、ザラキ厨よりも強い彼らが、兄とともに戦っている。

同じ名前、同じドット、同じカセットにいるキャラクターな筈なのに、
僕には彼らが、全く知らない誰かに見えて仕方が無かった。


兄の背中越しに繰り広げられる、手に汗握る攻防。

馬車の中にいたミネアやマーニャが代わる代わる現れては、
苛烈な一撃をくらい馬車へと引っ込んで行く。


一瞬たりとも目が離せない。


けれど、僕には時間が無かった。


塾へ行かなければならないのだ。

この戦いの結末がどうなるのか見たい。
しかし時間が無い。

僕は塾へ行く準備を終え、リュックを背負い、
あとは靴を履くだけの状態になったまま、とにかく時間いっぱいまで、兄の戦いを見守った。

そして、タイムリミットを少し過ぎたころ、


兄の剣がデスピサロの頭を叩き潰した。


やったぞ、兄は世界を救ったのだ!
兄と知らない仲間達、おめでとう!

と思ったのもつかの間、デスピサロの腹部に顔が浮かび上がり、
手が生え、脚が生え変わり、やがておぞましい頭部が現れてくる。


あの時、部屋中を覆った絶望感たるや。

ライアン、アリーナ、ザラキ厨は既に倒れ、
奥さんが転売屋のオヤジや人型コンジャラーの白ジジイが、
まるで「初めての戦闘です」と言わんばかりの初々しさで必死に戦っている。

途方に暮れる兄と、
そんな兄を置いて家を出なければならない僕。


兄は、兄たちはどうなってしまったのか...。

塾へ向かう間もずっと、兄とトルネコとブライと、
あの凶悪なデスピサロのことを考えていた。


自分でゲームをしていた訳でもなく、あんまり思い入れもない仲間達だったけれど、
心の底から兄の勝利を願っていた。


兄の遊ぶ姿を見る、というのが、恐らく僕の原体験なのだ。

今では兄と僕は違う家に住んでいるから、兄の遊んでいる姿を眺める事は無くなったが、
その代わり、知らない人が毎日どこかでゲームをしている、そんな姿を眺められる世の中になった。


僕はあれからだいぶ大人になったのだけれど、
今でも時々、誰かがゲームをしている姿を眺めている。


小学生の時と変わらず、誰かを応援したり、感心したりしている。


不思議なものだ。

バレンタインデーは国民的行事なんだから祝日にすれば良いんだ。

今年の2月14日は日曜日だ。
これがどれだけ素晴らしい事であるか!

日曜日といえば、一般的には休日。
学校も休みだし、会社も休み。

つまり、一日中家に居られる。
好きな女の子が僕以外の誰かに何かを渡す様を、見なくて済む。
自分が誰にも何も貰えないことを、見られなくて済む。

「机の中にチョコを入れるから、男子は出て行ってよ!」

そう女子生徒たちに言われるがまま教室から外へ出て、
「もういいよ」との合図と共に教室内へ入り、
無いとは知りつつも自分の机の中をさぐり、
そしてやっぱり教科書以外に何も入っていないことを確認する様を、
女子生徒たちに見られずに済む。

同じくチョコが入っている筈も無かったノッポメガネのN君と視線を合わせずに済む。
苦笑いのN君と死んだ目をした僕が
「いや、お前が貰える筈ないだろ」とお互いを蔑まずに済む。

そしてトボトボと、一人で下校せずに済む。

それだけで素晴らしい。
素晴らしくない日に家に居られるだけで素晴らしい。

バレンタインデーが国民的行事になるのならば、
いっそのこと国民の休日にすれば良いんだ。

そうすれば2月14日を迎えるたびに、永久に家に居られる。

明けた月曜日のチョコは無効だからカウントしない。
好きな子が日曜日に密かに男子に会っていようが、密かだから知らない。
知らないことは分からないから大丈夫。

バレンタインデーは祝日となれ。
甘いチョコの裏側で、苦い思いを噛み締めたあの日の僕とN君の為に。