吾輩と、猫である⑧

猫2匹の腎臓が、どうも良くないらしい。



彼らが吾輩の家にやってきて、もう7カ月が経とうとしている。
生後10カ月といったところだ。


吾輩の家に来たからには、とにかく良いものを食べて貰おうと思い、
世間的に『とてもよい餌』と言われるものをあげていた。


方や吾輩と言えば、食事はスーパーやコンビニで買ったお弁当だったりするので、
時折「どちらが良い物を食べていると言えるのだろうか…」と考えてしまうこともあるが、
まあ、気にしても仕方がない。


そして、それが良かったのか悪かったのか、2匹ともいつの間にかとても大きくなった。


今年の4月に私用で1週間ほどロシアへ赴くことになり、
その間、ありがたいことに保護主さんに預かってもらうことになったのだが、
迎えに来た保護主さんも「これはでかい」と息を飲んでいたほどだ。


ちなみにロシアから帰ってきて、2匹が久しぶりに吾輩の家へと返ってきた時、
2匹とも、この家はもちろん、吾輩のことすらも忘れてしまっていた。


ちょっとだけ傷付いてしまったが、そんなものなのだろう。
家の隅っこに隠れるようにジッとしている彼らを見て
「また最初からやり直しなのか……」と気を揉んだものだが、
1時間ほどで思い出してくれたようだから良しとする。



そして、5月に入り、いよいよ彼らは去勢手術をすることになる。
去勢手術を行う前に事前検査が必要になるらしいので、吾輩は2匹を連れて動物病院へ行かなければならなかった。


2匹ともかなり大きいので、まず1つのケージには入りきらないだろう。
しかし、病院は徒歩10分圏内にあるとはいえ、ケージを2つ担いで運ぶのはかなり難儀である。


彼らは今およそ4キロ半ほどの体重があるので、
ケージの重さも含めると、2リットルのペットボトル3本分ほどであろうか。


3本のペットボトルが詰まった袋にをそれぞれ両手に抱えて歩くのは、それこそ軽度の地獄である。
そして、その袋の取っ手を分け合える存在もいない。


そんな存在が居れば、「片方だけ持ってね。もう一個の袋はオレが持つから……」などと、
本当はビニールの取っ手が食い込んで指が千切れそうだけれど、どうにか強がりを言って我慢することが出来るのだが、


吾輩は独りである。
ただただ独りなのだ。


どうしたものか、と頭を悩ませ、色々な人に相談したところ、
猫を入れられるリュックがあるとのことだった。なんと便利であろう、とすぐに購入する。


そうして届いたリュックに退助を詰めて背負い、早助の入ったケージを抱えながら、
よたよたと病院へ向かった。

その姿はまるで、二宮金次郎のようだ。
しかも、前後に重量を分散させたとは言え、なかなかに過酷な行程であった。



動物病院では、血液検査とレントゲンを撮って貰った。


猫の首周りにシャンプーハットのようなものを巻いてもらい、
猫には何が行われているか分からないような状態で、
足に注射器を刺し、血液を抜く。


その時にも獣医さんが「これはでかい」と言っていたから、やはり彼らはでかいのだろう。
餌の時間はなるべく守っていたつもりだったのだけれど、吾輩は申し訳なくなってしまった。


しかし「骨もしっかりしている。筋肉も良い」と褒めてくれてもいたので、
そこまで悪いというわけでは無いのかもしれない。



ただ、去勢前は「大きい」で済むのだが、去勢後は「肥満」と表現が変わるらしい。


吾輩も最近お腹がポッコリしがちであるが、
吾輩もまだ去勢はしていないので、呼び方は「大きい」で済むということか。


そうでないのならば、「肥満」と呼ばれるのはどこのラインからなのかを教えて欲しいものだ。



レントゲンは別室に連れていかれたので、何が行われていたかは分からないが、
時折退助の悲鳴が聞こえてきたので、猫にとってはさぞ嫌な思いをしたことだろう。



そうして全ての診察が終わって、獣医さんから診断結果を聞いた。



2匹とも、腎臓にちょっと問題があるかもしれない、とのことだった。



血液検査の結果、エイズは陰性であるが、腎臓にやや問題がある兆候がみられるとのことだ。
レントゲンを見ても、片方の腎臓がちょっと小さいらしい。



吾輩は、どうしたら良いのか分からなかった。



これは吾輩のせいなのだろうか。
吾輩の育て方が間違っていたのかも知れない。
もっと注意を払うべきだったのだ――。


一瞬で色々なことを考えてしまったが、獣医さんが言うには、
猫はもともと腎臓に難がある生き物らしい。


老猫になればなるほど、その兆候は散見されるようになるようだが、
先天的にそういう傾向にある猫もいるとのことで、

彼らは2匹とも兄弟であるから、
産まれながらにして腎臓に問題を抱えていたのかも知れないね、とのことである。


吾輩の責任ではないのか……、とちょっと安心してしまったことに、吾輩は酷く落ち込んだ。
しかし、今は自分のことなどどうでも良いのだ。



獣医さんは腎臓の問題についてあれこれと話してくれた。



猫は血液の多くを腎臓に送っているのだが、去勢手術をするにあたって麻酔を使うことになる。
そうすると腎臓に血液を送れなくなり、病状がより悪化する可能性があるということ。

しかし去勢手術をしないと、それはそれで別の問題が出てくる。
例えばマーキングが始まってしまうと、猫と暮らしていくのも困難になるだろうとのこと。



そして、手術をするかどうかの判断は、吾輩に委ねられているのだ。



どうするべきなのか、吾輩には答えが出せなかった。



猫を譲り受けるに際して、去勢手術を行うという約束を交わしているし、
吾輩はそこに意見をするつもりは一切ない。

生命、そして自然というものに対し、色々と考えをお持ちの方もいるだろうが、
個人的に色々と調べてみたところ、お互いにとってメリットがあると感じたのは事実である。



しかし、寿命を縮める可能性があると分かると、話が変わってくる。


猫の寿命を進んで縮めることが正解なわけはない。
かといって、猫との暮らしが困難になってしまうと、結果として皆が不幸になってしまう。



どちらを選んでも正解ではないという決断ほど、恐ろしいものはない。



吾輩が頭を抱えていたら、獣医さんが「SDMAという検査方法がある」と教えてくれた。
それにより、猫の腎臓の状態がより詳しく分かるらしいのだ。

ただ、この病院では出来ないらしく、また、費用も少し掛かるとのことだった。


吾輩はすぐに「お願いします」と検査を頼んだ。
費用などは些末な問題である。


とにかく、彼ら2匹がどういう状態にあるのかを知らなければならない。
「〜かも知れない」という曖昧な状態は、吾輩にも彼らにも良くないと思ったのである。


検査の結果は翌日には出るようだ。
それから、獣医さんと話をして、どうするか決めようということになった。


2匹を抱えて連れ帰り、不機嫌な彼らにおやつを与えてなだめながら、
吾輩は色々と考えた。


そうして出た結論は、
「何故、よりにもよって彼らの腎臓に問題があるのか」などということは考えるだけ無駄だ、
ということだ。


腎臓に問題があろうがなかろうが、彼らが今、吾輩の家に居ることは紛れも無い事実であり、
これから彼らと暮らしていくのもまた、変わることの無い事実である。


吾輩だって喘息持ちであるし、微弱な猫アレルギーであるし、
最近は何故だか二の腕が痛いし、若干骨盤がゆがんでいる。
家ではゲームばかりしているし、時折独り言のようなものを画面に向かって呟いているし、
独り身である。


つまりお互い様なのだ。


吾輩も具合が悪い所があるし、彼らにも具合が悪い所がある。

五分なのだ。


ややもすると、吾輩の方が問題点を抱えているまである。

彼らに「これは難儀な飼い主のところに来てしまったぞ」と
夜な夜な囁かれていても文句は言えないのだ。


そして、彼らがどういう状態にあるにせよ、
吾輩が彼らにしてやれることの本質は変わらないのである。


とにかく、野良猫であった時よりも良い生活をさせてやることこそ、大義なのだ。



翌日、ほどよい時間になり、動物病院へ電話をした。


結果は「もちろん腎臓に不安はある。けれど、手術するぶんには問題が無い」とのことだった。


吾輩は今度こそ、正直にホッと胸を撫で下ろした。
考えなければならない問題、出さなければならない答えを出す必要が無くなったのだ。


もし、手術すらままならぬという状態であったならば、吾輩はどうしていたのだろうか。
やはり上手く答えがまとまらない。考える必要が無くなった今はなお、答えを出せる気がしない。


情けない話である。



去勢手術が終わったら、餌を変えなければと思ってはいたのだが、
腎臓に難がある場合は、さらに別の餌を与えた方が良い場合もあるという。

手術の日に、検査結果の詳しい話をしてくれるそうなので、
そこで獣医さんと相談してみようと思う。



ただ、去勢手術をするということは、つまり彼らの玉袋を摘出するということになる。


吾輩は彼らの玉袋を弄ぶことを至高の楽しみとしている部分もあるので、
(そのたびに彼らは嫌そうな顔をするが)
それが行えなくなることは、ただただ残念でならない。



吾輩と猫は色々と問題があようだが、ともあれ、どうにか生き抜いていくのである。