吾輩と、猫である①

吾輩は猫を飼おうと思ったのである。


決して、独り暮らしが寂かったというわけでは無いが、
よし、猫を飼おうと思った。


「独り身がペットを飼うと婚期を逃すぞ」


誰もが口を揃えて言った。
よく聞くフレーズである。


昔から猫を飼いたかったのだが、実家の父方の祖母が猫嫌いだったらしく、
飼うことが出来なかった。

ちなみに母方の祖母は犬嫌いだったらしく、犬も飼えなかった。


吾輩は完全に詰んでいた。


小学生の頃、法の抜け道を通るようにして、強引に兎を飼ったのだが、
(従妹の家族とどこかへ出掛けた先で買って帰る。吾輩の両親は不在)
ダンボールで売られていたような兎であったからか、長くは生きなかった。

兎が死んだ晩、わんわんと泣いていたことだけは記憶している。


グッピーも飼ったことがあるが、なんだか飼った感じがしなかった。
グッピーに失礼な話だ。お詫びしたい。


ちなみに、グッピーも兎も実家の庭に隣り合わせで埋まっている。



「もし立派な大人に成ったら、ペットを飼って、こんな名前を付けて……」


そんな妄想だけに留めながら、思春期を過ごしてきた。
それから大分時間が経った。
吾輩はいつの間にか小説家になり、何冊か本を出版して貰った。

ゲームをしながら、ゲームを見る人たちと過ごすという、
ワケのワカランことなんかもやり始めた。


立派には成れなかったが、ワケのワカラン大人には成った。


ある段になって、そろそろ引っ越そうと思った時、
吾輩は不動産屋に『ペット可物件のみ』という条件を提示した。


もうペットを飼っても良いだろうと思ったのだ。
重ねて言うが、決して寂しいから、というわけではない。


「独り身がペットを飼うと婚期を逃すぞ」


誰もが口を揃えて言う。


「じゃあペットを飼わなかったら婚期が迎えに来てくれるんですか!」


吾輩がそう返すと皆が黙った。
完全論破である。


論破したのに、何故だか涙が頬を伝った。


引っ越し先の近くに知り合いがおり、
用事で家を長く開けることになったとしても、面倒を見て貰える約束を取り付ける。


準備は万端。


しかし、いざ、大手を振って猫が飼えるような環境が整っても、
なかなか猫との暮らしは始まらなかった。


その理由は幾つかある。


吾輩、ペットはペットショップで買うものだと思っていた。

だから、ロシアンブルーが良いなとか、ソマリは格好良いなとか、
ノルウェージャンフォレストキャットって名前はなんかガイ=リッチーの映画のタイトルみたいで凄いな、
などとワクワクしていたのだが、


ツイッターでこんな意見を貰った。


「猫を飼うのなら、里親制度というものがあるので、ご一考ください」


こんな感じのメッセージを数件貰った。


多くの人は丁寧な口調であったが、中には「ペットショップは! 生体販売は!」という勢いの人も居て、
ほんの少しだけ怖かった。


(里親……なるほど、そういうものもあるのか。)


確かに、里親という制度は聞いたことがあった。
聞いたことがあったのに、完全に失念していた。


捨てられた、あるいは野良として生活している不憫な猫を保護し、
猫を飼いたい人と巡り合わせるのが里親制度である。


(不憫な猫を飼うというのも悪くはないなぁ。吾輩もある角度から見れば不憫だし)


それから、インターネットで里親制度について色々と調べてみる。
どうやら里親募集のサイトが沢山あるようだ。


覗いてみると、沢山の猫や犬が里親を待っているようだった。
世の中にはこんなにも不憫な動物がいるのかと、ちょっと驚いたほどだ。


しかし、ここで一つ問題が浮上する。


里親募集の応募要項に、結構な頻度で「男性単身者不可」の文字が記載されている。


男性単身者……つまり吾輩である。
多くの場合において、吾輩は不可なのである。


確かに、吾輩は不可であることが多い人生だった。

学業でも、眼鏡をかけているに関わらず不可、
バイトでも、空白の期間の説明が上手く出来ずに不可、
友達として、あまりにも冷淡なので不可。

不可不可な人生である。
口に出すと暖かい人生っぽいのだが、現実は限りなく肌寒い。


しかし、まさか、ペットを迎えるにあたっても不可であるとは思いもしなかった。


男性単身者を不可とする理由は幾つかあるようで、
単身者の場合、仕事に出かけるため家を空ける時間が長く、
猫の面倒を見る頻度が少なくなってしまうこと。

あるいは急な出張や転勤などが考えられ、
猫が安心できる状況を常に作り続けられない可能性があること。

また、虐待目的の可能性もあるらしいこと。


吾輩そんなことしないのに!
友達いないから結構家に居るのに!
つい先日も知り合いからのお誘いを断ったばかりなのに!


嘆いても仕方がない、と、『単身者可』のタグがあるものに的を絞り、
気になった猫の保護主さんにコンタクトを取ってみた。

「ワタクシダイジョウブですから!」とつらつらメッセージを書き連ね、送信すること数度。


結果は散々なものであった。


1回目。

返信が無いまま募集のページそのものが無くなる。


2回目。

返信を頂き、一段階進んだところで「里親が決まりました」と断られる。


3回目。

返信が無いまま投稿主のアカウントが消える。


4回目。

返信を頂き、数度やり取りをさせて貰う。
「この猫は初心者には難しいかもしれません」とのお言葉を受け、断念する。


その他、『単身者可』であっても女性限定で、男性はNGの場合が多く、
ページを開いてはガッカリする……を幾度となく続けること十数回。


気が付けば、初めて応募してから数カ月が経過していた。
そして、吾輩はちょっと心が折れ掛かっていた。


「どうやら吾輩は里親に向いてないのかも知れない」


そんな風に思うようになっていた。


吾輩以外にも、里親になりたいという人はいるだろう。
保護主としても、彼らと吾輩とを比べたら、断然彼らのところを望むだろう。

だって、吾輩が保護主ならそうする。
『少しでも良いところに貰われて欲しい』と思うのはとても正常な思考であろう。


競争――という言い方は語弊が生まれるかも知れないが、
吾輩は、その壇上にのぼる気力そのものが失われ欠けていた。


ふらふらと、近所のペットショップを覗くようになったのは、その辺りからだ。

『吾輩』と『猫』という小さな単位で見れば、保護された猫もペットショップの猫も、さして変わりはないのではないか?

そんなことを思いながら、ペットショップを巡っては、
ガラスケースの中に入った猫を愛でていた。


しかし、そこでも踏み切れずにいた。
吾輩は不可である、という事実が頭をもたげ、強引に買って帰ることは出来ずにいたのだ。


それからやっぱり、里親募集サイトを覗く日々が続く。
ただ覗くだけで、こちらからコンタクトを取ることは無い。


里親募集の文字を見ながら、吾輩は色んなことを考えた。


本当に里親になりたいのならば、『どの猫が良いかなぁ』なんて気持ちで、
猫を選んではいけないのではないか?

『この猫は可愛い』、『この猫は変わっているから良い』などという理由は、
不純なものなのではないだろうか?

――吾輩は、全ての猫に平等であると言えるだろうか?
――猫を飼うことを、一種のステータスにしようとしてはいないか?
――猫の幸せを願うのならば、吾輩が飼わないほうが良いのではないか?


吾輩はちょっと考えすぎて、たぶん変な感じになっていた。


「吾輩、猫が飼えない。とんでもない不可野郎だから」


そんな愚痴にもならない言葉を知り合いに漏らすと、
あくる日、知り合いがこう言った。


『保護団体だけじゃなく、ツイッターフェイスブックを使って、
個人的に里親を募集している場合もあるから、そこから応募してみるのも良いかも』


(なるほど、そういうものもあるのか……)


個人とのやり取りであるならば、もうちょっと吾輩のことを見て貰えるかもしれない。
しかし、フェイスブックの方はすぐに候補から消えた。

吾輩のフェイスブックは、ほぼ更新されておらず、
時々、学生時代の知人の幸せな様子を見たりだとか、
昔のコイビトが結婚して子供を産んだことを知り、独り傷つくくらいの活用しかしていないのだ。


それは恐らく正常な使い方ではあるが、こちらの身分、人格を保障するものはなるまい。


では、ツイッターか。
確かに、吾輩ツイッターは結構使っている。

しかし、吾輩のツイッターと言えば、
おちんちんとか、あるいはそれに類する言葉しか呟いていないアカウントである。

ヘンなことばかりやっているから、フォロワーは七万人くらいいて、
とてもじゃないが普通じゃない。


こんなものが見られた日には、速攻でお断りさせられるのでは……?


そんなことを考えつつ、しかし何もしないよりはと、
ツイッターにて、里親募集のハッシュタグを検索した。


沢山の情報が出てきた。
保護団体のものもあれば、そうでないものもある。
北海道から沖縄まで、津々浦々で募集されていた。


そんな中、一つのツイートに目が留まった。


里親募集の文言とともに、写真が載せられている。


そこにいたのは、4匹の小さな猫たちだった。
ショッピングセンターの駐車場で保護されたようだ。
どうやら、人間に捨てられたのではとのことだが、どういう理由によるものかは分からない。


場所は、馴染みのある地域だった。
吾輩が学生時代に住んでいた町である。
(実際はちょっと離れていて、あとから聞いた話によると、分かりやすい町名を挙げたとのことだ)


吾輩はすぐにキーボードを叩いていた。


(これが駄目だったら、もう諦めようか)


そんな思いで、吾輩はコンタクトを試みたのである。