吾輩と、猫である⑨
気が付けば吾輩は猫と2度目の年を越し、
彼らとの生活が当たり前になりつつあった1月10日のことである。
家に帰るなり、忘れぬように記しているので、かなり乱暴な記述となることを許して欲しい。
吾輩は退助を連れて救急動物センターへと向かった。
そして、そこで色々なことがあった。
話は数時間ほど遡って、まだ陽も昇らぬ朝4時ごろ。
猫たちが、餌を寄越せ、寄越さないなら暴れるぞと、
狭い部屋を縦横無尽に駆け回っていた。
猫たちは現在、6キロに届かんとしている巨体であるので、
餌をあげる量を調整し、どうにか痩せて貰おうと苦心しているのだが、
これがなかなか減らない。
そもそも飼い主自体が肥え始めており、体重の調整がままならぬと言うのに、
猫にのみ減量を強いるというのは甚だおかしいのかもしれないが、
なるべく彼らには健康体であって欲しいので、
心を鬼にして『餌よこせ大音声』を無視している。
正確には、無視をしたりおやつをあげたりしている。
餌の要求が無視され、飼い主が布団に入ると、
彼らが取る行動は大体2パターンに分かれる。
1つが、吾輩の傍へ寄ってきて、吾輩を挟むようにベッドで眠ること。
もう1つが、まるで当てつけるかのように2匹でバタバタと駆け回ることだ。
本日は後者だった。
いざ眠りに就かんと寝転がっていたのだが、
バタバタと辺りを駆け回り、どうにも眠れない。
「仕方ない、疲れさせよう」
吾輩はベッドを起き上がり、台所に閉まってある猫のおもちゃ群の中から、
彼らが特に興味を示す釣り竿型の猫のおもちゃを取り出し、
さも生きているかのように操ることで彼らの減量に励むことにした。
良い感じに運動をさせている、と思った矢先、
退助がおもちゃに食らい付き、力の限り引っ張った。
そこまではいつも通りである。
この後、退助からおもちゃを引っぺがし、今日はおしまいと片付ける流れになるのだが、
今日の退助は一味違った。
釣り竿からおもちゃを引きちぎった退助は、布製の先端部分を咥え込み、
あろうことか、そのまま飲み込んでしまったのだ。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
退助も早助も、今まで細かいものを飲み込むことは無かったので、
吾輩も油断していた部分がある。
なぜもっと早く引きはがさなかったのか、
なぜ今の時間に遊ぼうと思ったのか、
色々と反省したが、今は目の前で起こってしまった事実と向き合わなければならない。
おもちゃの先端部分を飲み込んだ退助は、ケロリとしているが、
一向に吐き出す気配が無かった。
吾輩はすぐさま『猫 誤飲』で検索を掛ける。
すると、猫の誤飲は放っておくととても良くないので、とにかくスピード勝負だとの記述があった。
急いで近くにある救急動物センターへと電話し、
猫がおもちゃの先端部分を飲み込んでしまった旨を伝えると、
猫のためにも出来るだけ早めに見た方が良い、とのことだった。
吾輩は大急ぎで退助を猫用リュックに詰め、駅前でタクシーを拾う。
タクシーの運転手に行き先を告げると、場所の名前的に急用だと察してくれたのか、
車の速度も心なしか速かった。
救急センターに付くと、すぐに診察をしてくれた。
まずレントゲンを撮り、胃の状態を見てみると、
確かにおもちゃと思しき小さな物体があるようだった。
軽く麻酔をすると猫が吐き出す可能性があるようだが、
胃の中がからっぽなので、ちゃんと吐いてくれるとは限らないらしい。
そうなると、また別の手段を取る必要があると獣医さんは言った。
吾輩は了承し、退助に麻酔を打ってもらう。
しかし、退助は吐かなかったようだ。
減量などと言わず餌を食べさせておけば良かった、と再び後悔が襲ってくる。
そうなると、残された手段としては、
内視鏡なるもので直接胃の中から取り出す手段しかないらしい。
一も二もなく、お願いしますと頼んだ。
退助は獣医さんの腕の中で、麻酔を打たれてぐったりとしている。
あんなに小さな体に麻酔を打って大丈夫なものかと気が気でなかった。
やがて処置がはじまり、しばらくすると、吾輩の名を呼ばれた。
言われるがまま、すぐ隣の処置室へ向かうと、
手術台の上で、退助は目を見開いたまま、ピクリとも動いていなかった。
だらんと垂れた舌の奥、口の中に長い管を入れられている。
どうやら、猫は麻酔をされるとこのような状態になるらしい。
予備知識が無かった吾輩は、何か良くないことが起こったのかと、
最悪の結末まで想像してしまっていた。
内視鏡で覗かれた退助の胃の中の様子が、小さな画面に映されている。
そこには、退助が飲み込んだ布状のおもちゃが、たしかにそこにあった。
獣医さんは器用に管を動かし、その先に付けられたアームで布状のおもちゃを掴むと、
実に見事に異物を取り出してくれた。
さっきとは反対に、胃が空っぽだったからとても楽だったらしい。
吾輩はもう、何だか良く分からなくなってしまった。
退助は相変わらずぐったりしているので、心の底から安心することは出来ないのだが、
獣医さんたちが落ち着いているので、とりあえずは吾輩も安心した顔をしてみせる。
麻酔が切れるまで1時間ほど掛かるがどうするか、と問われたが、
その場で待たせてもらうことにした。
そこから1時間。
徐々に麻酔が切れつつある退助の様子を眺めたり、
救急動物センターにいる他の猫たちを眺めたり、
女性の獣医さんがそんな猫たちをあやす様を眺めたりした。
そして、もう間もなく引き取れるという時に、
1組の家族が建物に駆け込んできた。
旦那さんと奥さん、それと小さな子供が2人。
奥さんの腕の中に、ぐったりと動かない子犬が1匹。
奥さんの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「呼吸が止まってからどれくらいですか?」
「30分くらいです」
「10分ほど試してみますが、それでも様子が変わらなかったら、その時は諦めてください」
そんなやり取りが、吾輩のすぐ隣で行われている。
「諦めてください」という言葉が、酷く重たい。仕方が無いが重たい。
吾輩は受付ロビーの椅子に座り、彼らの邪魔にならぬよう、なるべく小さくなっていた。
やがて、先ほど退助が寝かされていた手術台で処置が始まる。
「頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ」
そう言いながら、家族の名前を連呼する奥さんの声が室内に響き渡る。
「頑張って、頑張って、頑張れ、頑張って、頑張れ、頑張って」
何百回繰り返したか分からない。
幾度も幾度も家族の名を呼び続けている。
いずれ。
吾輩も、それが何年後になるか分からないが、
出来れば何十年後かであって欲しいが、
退助や早助を連れてくることがあるのかも知れない。
全く関係が無いとは分かりつつも、吾輩も心の中で祈った。
もし助かったら、いずれ来るその日に、退助や早助も助かるかもしれないと思った。
しかし、あっという間だった。
あっという間に時間は経ってしまい、
一匹の子犬は帰ってこなかった。
ひょっとすると。
この10分という時間は、残された家族のための時間なのかも知れない。
もう初めから、帰らぬものと分かっていたのかも知れない。
そんなことを思ってしまう自分に少し嫌気がさしつつも、
吾輩は、やはり関係が無いのに、涙がたまっていた。
やがて、書類に何かを記入するため、その家族が吾輩の近くに座る。
何の関係もない吾輩が泣いていたらさぞや困るだろうと思い、
吾輩はそっぽを向いた。
そして、彼らに最大限の気を遣うように、退助が運ばれてくる。
退助はだいぶぐったりとしていたが、しっかり目が覚めていた。
細かく震えているのは麻酔のせいだそうだが、確かに生きている証だった。
うなだれている家族を後目に、吾輩と退助は、早助の待つ家に戻る。
いつのまにか陽は昇っていて、吾輩は獣医さんに感謝し、そして大いに反省する。
家に着くなり、退助はよたよたと室内を歩き、
病院の匂いがするのだろうか、早助に威嚇されていた。
可哀そうだが、笑ってしまった。